神影流 桜棒の手

棒の手は棒、木刀、槍、薙刀、太刀、棒、竹刀、鎖鎌等を使用する武術的な民俗芸能で、2人から4人の演技者が型に従って演舞を行います。

古くより神事芸能、農民の自衛手段として受け継がれて来ました。

棒の手は愛知県内に様々な流派が伝えられています。

流派によって型などの違いはありますが、神事的要素の強い「表」と言われる型と、観衆をたのしませるキレモノ(真剣等)を使った「裏」と言われる型があります。

正式に棒の手としての形を整えた始祖は源義経と言われ、桜の地で棒の手が行われ出したのは戦国時代になってからのことです。

その後、先人より脈々と受け継がれ昭和31年(1956年)6月21日に県教育委員会より無形民俗文化財に指定されました。


【棒の手の由来】

 棒の手が日本で行われ始めたのは、
「尾張地方における馬の塔と棒術、雑考」(丹羽主税編)によると、日本武尊の活躍する神代時代であるとされている。

 棒の手は、一種の民間武術であるから、神代において、その基礎的な剣の用法として行われていたと考えることができる。

 正式に棒の手として形を整えた始祖は、源義経であると言われている。
義経が鞍馬山中で武芸修行をしたことは、「平家物語」に記されており、相手の天狗は習性から考えると猿と思われる。

 義経が、ひとり稽古をしていると猿が現れたので、それらの猿を相手として剣法の極意を体得し、鞍馬半官流を案出したものと推測される。その群がる猿を相手にした素面・素小面・木棒による試合が、棒の手の始まりと考えられる。

 棒の手と深い関係のある、三河猿投神社社前には狛犬に猿が置かれ、猿投神社記には、「慶長5年(1660年)村民、猿投神社の帰路、伊保神社で技を演じ、これにより西加茂郡及び尾張に棒の手が盛んに行われ、祭礼にこの技を演ずる、これに起こる」とある。

 伊保日記には「倒起・剣倒・夢想・鎌田の棒の手四流とす」とある。
愛知郡猪高村誌には、「棒の手巻きは、いかなる近親、親子といえども秘して語らず記録を披見することを得ざれども、古老の語るところによれば、大海法思と称する人、魔術を利用し、種々の奇法を行いたり、近隣の者、太刀・槍などの使い方を学び、奥義皆伝を受く、これが棒の手の始まりなり」とある。

 
 以上の資料から、尾張地方では1500年頃からさかんになり、現存する棒の手とほぼ同じ形式のものが行われていたと考えられる。 


【桜棒の手】

[ 変遷 ]

 桜の地で棒の手が行われだしたのは、戦国時代になってからである。桜八幡社(名古屋市南区)にある桜棒の手碑には、源義経の時代から行われているように記してあるが、いわゆる棒の手として一つの形式をはっきりと持つようになったのは、「桜棒の手沿革由来郷土誌」(成田鎌作氏)によると、大永年間(1521年~1528年)であろう。

 当時、桜村は、西桜と中桜と東桜に分かれていたが、西桜と中桜にまたがって中村城があった。城主は山口氏で代々織田氏の家臣であった。
 城主は熱心に棒の手を西桜と中桜の農民に教え、合戦の時の準備に利用していたと伝えられる。その時すでに祭礼の時には奉納試合をしていたと云われるが確かなことはわからない。

 その後中村城主、山口太郎左衛門教房の時、彼は今川義元に力をかしたので、織田信長は怒って山口氏を討ち、中村城は滅亡の一途をたどった。
 しかし、棒の手は山口氏滅亡の後も残っていたが、その人員、流派は伝わっていない。

 現在、桜棒の手として伝わっているものは、天保・弘化(1830年~1848年)の時代に、江戸から落ちてきたある武士が野田村(現在の名古屋市中村区野田町)で近くの人々に教えた棒術が元になっている。

 この棒術は、名前を絶対に言わないため、不言流とも言い、また村の名前をとって野田流とも言った。

 同流は、他村に伝授した数30村に及び、桜・高田・井戸田・御器所・石仏・稲葉地・北一色・岩塚など皆この流れを汲むものである。

 当時桜村の人が野田村で神影流の棒の手を指南され、それを桜村で神社の祭礼時、行うようになった。

 このころ、今までやっていた西桜の棒の手はやめて、その代わりにそれまでやっていなかった東桜の人たちが棒の手を始め、これが大正初期まで続けられていた。
現在では東・西・中桜(昔の桜村)全部の有志で行われている。

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[桜棒の手の服装]

当初は、小紋はんてん、襦袢、真田角帯には定紋を染め出して、武士結びとし、小紋腕抜き、真田紐のたすき、浅黄色の小紋ももひき、小紋脛布、紺たび、紙草履を身につけ、演武となると草履を脱いで行っていた。

現在は大きく変化して、草履の代わりに地下足袋を履くようになり、流派の名入り半纏を着用し、紺色で揃えている。
頭にははちまきをつけ、血止めのために帯に、半紙と手ぬぐいをはさんでいます。

[棒の手の道具]

 棒の手の道具のうち、薙刀・槍・棒・を大道具といい、太刀・木刀・鎖鎌・十手などを小道具という。
 また、棒の手の型は表と裏に分かれてそれぞれ34種類ある。
 表型と呼ばれるものは、刀・棒・木刀・木薙刀などを用いるもので神事的要素が強く、裏型と呼ばれるものは、槍・薙刀・太刀など刃物を用いるもので観衆を楽しませる要素が強い。
 昭和20年の敗戦の時アメリカのマッカーサー率いる、進駐軍の指令で、刃物(薙刀・刀など)は警察署に没収され、昔からのものは、ほとんど残っていない。

[演武の種類と手]

 棒の手は、刀や薙刀・槍を使用して危険な真剣勝負の型をするもので、演技者は男性に限られています。(令和6年改正)
 演武の種類として、三つ切・五つ切・七つ切・片舞・両舞・石突四人薙刀・一人振・鎖鎌・半棒・竹刀・なぎ・わら切り・四人棒・豆打棒・真剣・木刀その他がある。
 手としては、刀24手・薙刀12手、槍12手などがあります。

 子供は木太刀で「イヤホット」の止め言葉で行い、大人は真剣等を持って行う。
 槍には「ユユユユ」の言葉を用い、薙刀はすべて「イホ」掛け声で振り出し、「ヤヤヤ」の声で立ち会うとされているが、その他のことはよくわからない。
 演武毎に塩を振って清め、神事として初めに真剣で「神おさめ」といって真剣と真剣の立ち合いを行う。すべての演武が終了すると法螺貝を吹く。

  神社の境内や演武の奉納場所に向かうときは、「ヨッサ(世栄)、エッサ(栄作)、ホッサ(豊作)」の掛け声を使う。

[血止めの法]

 桜棒の手では奥義として「血止めの法」があります。
 この極意を受け継ぐものは、免許皆伝者に限られ、奥義伝承の時には、身を清め、丑三つ時に神前にて式を執り行い、前任者より伝授されます。
 この極意はたとえ親兄弟でも教えてはいけないことになっており、他人に漏らすと棒の手を行うことができなくなってしまいます。
 もし、忘れた場合は伝承者同士で教え合うことになります。

【桜のお伊勢様】

  桜台町(名古屋市南区)にある桜のお伊勢様は、その起源や由緒は明らかではないが、残された掛軸や女神像(雨宝童子)一裏書き「天正三乙亥年、正親町院御宇、奉勧請」一から、すでに天正年間には、お伊勢様がこの地に存在していたことは確かであろう。
 また、「葎の滴」<諸家雑談>という書物によると、稲吉新蔵の話として、次のように伝えられている。
 おそらく江戸時代であろうと思われるが、愛知郡桜村にあるお百姓さんが、伊勢神宮へ75回参拝したという、この人は老年になって、夜寝床の中で、伊勢大神宮が「あなたは私のところへ何度も足を運んだし年もとったのでこれから後は、来なくてもよろしい。私があなたの元へ行きましょう。」とおっしゃる夢を見て目が覚めた。
  翌日、田へ出て農作業をしていると鍬の柄に天より降りかかるものがあったので、これを取って見ると女帝のお姿であった。
  百姓は、伊勢大神宮のお姿がどんなものであるかを知らなかった。家へ帰ってから人に見せると、その人は「これは伊勢大神宮のお姿に違いない」と言い出し、みんな驚いた。
 そこで百姓は、大いに信じ、その時より小祠を作って、これを拝むようになったという。
 これは旧正月16日の出来事であったので、その後毎年正月16日には朝から午後10時まで拝ませたということである。

 この伝説の天より女帝の降りたところは、現在、呼続の東邦ガス会社の敷地内にあって、楠が小山の中に生えている。
 明治初期、お神明様(名古屋市南区呼続町下島合)にあった、2体の女神像を桜のお伊勢様に移したらしい。 



 桜のお伊勢様は、明治末期まで、村の信仰の中心として栄え、
例祭には、露店が10数軒のきを連ねており、
ここで棒の手の合宿や訓練や演武が行われていた。 

 桜のお伊勢様